世界はひとで、できている。
HOME > PREX island > 日本の専門家 > 違いをチカラに~人と人の相互理解~ PREXシンポジウム2017 基調講演

【基調講演】京都妙心寺退蔵院 副住職 松山大耕氏「人と人の相互理解」- PREX Island

日本の専門家 SDGs
違いをチカラに~人と人の相互理解~ PREXシンポジウム2017 基調講演

松山 大耕氏 京都 妙心寺退蔵院副住職 

松山 大耕氏
京都 妙心寺退蔵院副住職

2003年東京大学大学院農学生命科学研究科修了。2007年より退蔵院副住職。
外国人に禅体験を紹介するツアーを企画、外国人記者クラブや各国大使館で講演を多数行う。
2011年より京都市「京都観光おもてなし大使」。
2011年には、日本の禅宗を代表してヴァチカンで前ローマ教皇に謁見。
2014年には日本の若手宗教家を代表してダライ・ラマ14世と会談し、世界のさまざまな宗教家・リーダーと交流。
2014年世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に出席するなど、世界各国で宗教の垣根を超えて活動中。

退蔵院のご紹介

京都妙心寺退蔵院の松山です。人と人との相互理解をテーマに、私の生い立ちも触れながら違いをチカラにすることについてお話ししたいと思います。
まず退蔵院の映像をご覧ください。
映像→ https://youtu.be/8MRRwy51whQ

日本人の宗教観~寛容~ 

私は退蔵院の長男として今から38年前に生まれました。
跡を継がせる気満々で育てられたのですが、中学、高校は、カトリックの学校でキリスト教の教育を受けました。
珍しいことではありましたが、いじめられたことも批判されたこともありませんでした。
大学に入り、敬虔なカトリックの国のアイルランドの田舎町に泊まった時、生い立ちを話したら、そこのおかみさんに「あなたの国ではなぜそんなことができるのか、アイルランドでそんなことをしたら殺されても文句言えないわよ」と言われました。
私はまったく反論できませんでした。 

日本の文化の中には、宗教が混在しています。
クリスマスにケーキを食べ、大晦日に除夜の鐘をきき、お子さんが生まれると七五三さんで神社に行く、結婚式はチャペルで、と海外の方に話すと、なんと節操がないといわれるでしょう。
宗教観は食と関係が深いと考えています。和食懐石には、洋食のコース料理のメインディッシュにあたるものはなく、全体の流れを大切にします。
日本人の宗教観も同様で、これが一番、これしかないという考え方ではなく、他の宗教にも敬意を払い、非常に寛容です。
これは日本独特の宗教観ではないでしょうか。

仏教についても諸外国の仏教とは、大きく違います。
私は24歳のころ修行道場に入りました。
その当時、なぜ、他の仏教国、たとえば台湾、ミャンマーやタイの坊さんは、結婚ができない、お酒を飲めない、肉魚を食べられないのに、日本のお坊さんには、ゆるされるのかという疑問を持っていました。
道場に入って3年目、中国の修行道場で中国のお坊さんと修行する機会がありました。
実際に修行を共にし、中国のお坊さんは、結婚ができない、お酒を飲めない、肉魚を食べられないと規則が厳しいのですが、私の印象では坐禅中に居眠りをする、掃除時間にきめ細かく掃除をしない、など、厳しい言い方をすれば、だらだらしているという印象を受けました。
つまり、日本ほど規律が厳しくないのです。
日本は逆です。
規則には多少目をつぶる、しかし規律はめちゃくちゃ厳しい。
つまり、日本と中国の仏教の違いは、どちらが優れているとか、良い悪いの話ではなく、規律と規則どちらを大事にするのか、そういう違いなのだとわかりました。

このように、例えばミャンマーやインドの諸外国のお坊さんが日本のお坊さんをみると、仏教ではないのでは?といわれるかもしれません。
しかし、私たちの築き上げてきたスタイルは、「日本の仏教」というしかないのです。
宗教は、日本の風土、文化、歴史に合わせて発展するものでその国にふさわしい形で発展してきています。
これもまた、食に例えられ、仏教のスタイルの違いはカレーに似ています。
カレーも仏教もインド発祥ですが、インドの人にカレーを食べてもらったら、これはカレーではないというでしょう。

日本の宗教観を世界に 

日本人は宗教に節操がないといわれますが、私は逆に日本人の宗教観は世界の最も進んだところにあり、日本人の宗教観のいい面を世界の皆様に知ってもらいたいと考えています。
その取り組みとして、2つ紹介します。
一つは、尼崎で始まったラジオ番組「八時だよ!神様仏様」です。
ラジオ番組で、DJは、神主さん、牧師さん、お坊さん、そしてイスラム教のイマーム(指導者)や私も準レギュラーです。
まったく違う宗教家が、リスナーのお悩み相談をする画期的な番組で、まったく異なる宗教家が集まり一つの問題を一緒に解決するというのは、日本ならではの発想です。

もう一つ発起人としてかかわっているのは「宗教者駅伝」です。
世界中からさまざまな宗教家の方に京都に集まってもらい、宗教家だけでつなぐ駅伝をしました。
第一走者、第2走者と、宗教バラバラで一つのタスキをつないでいきます。
これも非常に画期的な取り組みです。
今、宗教がらみのテロが起きていますが、宗教家のトップのレベルでは、そういうことをしている場合ではないということは、共通認識で、共に平和を推進しようという機運が高まっています。
すべての宗教に共通する一番大きな課題は、テロや戦争ではなく、「宗教への無関心」です。
人々の宗教への無関心にどう立ち向かうのかが、すべての宗教家の課題で、さまざまなところで開催される宗教者会議での話題となっています。
しかし、私は宗教者会議にも問題があると思っています。主な理由は2つあります。
一つは、宗教者会議をすると密室なので発信力がないということ。
もう一つは、宗教の世界は、ヒエラルキーがしっかりしていて、若い人が活躍できるフィールドは限られており、ともすれば年配のおじいさんの集まりなるということです。
「宗教者駅伝」は一人10キロ走らないといけないので、必然的に若い人が活躍できるのがよいところです。
そして、女性も大勢参加されます。
ヨーロッパのルクセンブルグやアムステルダムでも、同じコンセプトで、駅伝が開催されています。
スポーツを通しての宗教の融和を図ろうという取り組みです。

キリスト教の教育を受けて 

こういうさまざまな活動をしていますが、自分の活動の原点となったのは、キリスト教の教育を受けたことです。
中学高校は洛星中学・高校というキリスト教の男子校でした。
中高一貫の学校で、中学の1年、2年、3年生、高校3年生に宗教の時間があります。
6年間の授業の中で一番心に残ったのは、高校3年生の宗教の時間。奄美大島出身で当時75歳ほどの村田神父様という方が、「君たちの質問に何でも答えます」という授業をされました。
神父様の口癖は、「村田を困らせてください」でした。
今でも心に残るのは、私のある友人が「神父様は、いつも神様、神様とおっしゃいますが、僕たちには神様の存在がわかりません。
僕たちの前で、神様の存在を証明してください」と質問した時のことです。
非常に意地悪ですが、本質をついていると思いました。
この時、神父様は、「神様は人智を超えた存在だから神様である。だから、神は人間によって証明されてはならない」とお答えになりました。
この答えには、クラス中が静まりかえりました。
意地悪な質問に、逃げ隠れもせず、まっすぐに答えられた姿に、私は、宗教家はかくあるべきだと、感銘を受けました。
グローバルな世の中ですが、グローバルというのは、英語を話せるとか海外での勤務経験があるということではないと思います。
いろいろな地域、いろいろな宗教があるのだから、宗教についていろいろな知識を学んでおくのは必須です。
キリスト教の国に赴任して、最後の晩餐の絵の意味が分からない、イスラム圏にいって、ラマダンの時に何をしていいのか、悪いのかという知識がないのは致命的です。
違う宗教を学んでおくというのは、大切なことです。

ルクセンブルク大司教のオロリッシュ氏は、上智大学の副学長も務められ、日本に23年間住まれたご経験をお持ちです。
高野山でも1年間修行を積まれ、親鸞の論文も書いていらっしゃるなど、日本に造詣が深い方です。
オロリッシュ大司教とルクセンブルクで対談する機会をいただいたのですが、「自分は、日本という仏教国に行って、高野山や親鸞といった日本の仏教の神髄に触れたことで、より、キリスト教徒になることができた。違う場所に身を置くことによって、キリスト教の信仰や教えに対する理解が深まった」と話されました。
私自身も心の底から同意できるお話でした。 

異なる宗教を知ることが自分自身の学びを深めた 

オロリッシュ大司教のご推薦で、ルクセンブルグの修道院に滞在させてもらいました。
その時も、多くの学びがありました。
日本の禅の修行とキリスト教の修道院と同じところがありますが、全く違うところもありました。
同じ点は、朝早く起きる、お祈りの時間がある、静かに朝ごはんをとる、という点です。
その後、キリスト教の修道院は、またお祈りの時間、それから聖書を読む、語学、歴史を学ぶなど勉強の時間があります。
一方、日本の禅の修行道場では、勉強の時間は一切ありません。
ひたすら庭掃除と、ぞうきんがけ、巻き割りです。
なぜ私たちの修行は、勉強の時間がないのかと考えることが、禅の本質にふれることになりました。
禅は、「実践体験を重んじている」ということです。
いまここに、お茶があるとします。
ぬるい、にがい、香りがいいと説明しても、味は、飲まない限り絶対わかりません。
これが禅であるということに気が付いたのです。
本で読もうと、勉強しようと、悟りがすごいとか、仏教の本質が何かということは、自分自身が体験していかないとわからないということです。
禅は、体験や実践を重んじているのだということを、キリスト教の中に身を置くことで理解しました。
違うところに身を置くということは、すなわち自分の学びを深めるということにつながっていくのです。
海外にでると、日本とは何か、日本人とは何か、日本の文化をもっと勉強したいと思います。
外にいればいるほど自分自身への学び、深まりが出てきます。
違いが力を生むというのはそういうところにあるのではないでしょうか。 

異なる分野や宗教の人と接するときに重要な点 

キリスト教だけでなく、イスラム教の方とも交流してきましたが、こうやって違う宗教の人と触れることで自分自身の学びが深まったというのが私の経験です。
異文化の宗教の人と接するときに重要な点は3つあります。
一つめは、異文化の人と交流すると、自然と疑問がわいてきて質問したくなるのですが、タブーの質問もできる関係性を作っておくということです。
一方でどんな失礼な質問も受ける、という姿勢が大切になります。
2つ目は、とにかく聴くということです。
話の途中で、それは違うのではないかと思う場合もあるかもしれませんが、とにかく聴くことです。
3つ目は、自分が得た体験を、自分自身でとどめておくのではなく、周りと共有しないといけないということです。
これができてはじめて異文化との交流だと思います。
質問してはいけないと思われがちなことを質問でき、受けられること、こういう関係性がなければ、相互に理解を深めることは難しいのですが、この3点を、自分自身の中で注意しながら進めています。 

去年の秋に、フランチェスコ教皇にご紹介いただいてヴァチカンに行き、宗教者会議に参加しました。
私は、シンポジウムの中で「宗教者会議が開催されて、30年すぎますが、いまだに、宗教にかかわる戦争やテロはなくなっていません。
かつ、われわれにとって、最大の問題である宗教に対する人々の無関心にも、成果が表れていません。
宗教に無関心である、大多数の人に対し、果たして、この宗教家会議はどういう意味を持つのでしょうか」かと問いかけました。 

その後の教皇のお言葉として、「私たち宗教家自身が自分たちを変えなければならない。その時に大事なのは2つある。ひとつは、教会を出ることだ」と紹介されました。
私たちならお寺になりますが、お寺にいると快適で、お寺にはお寺が好きな人が来ます。
そうした方は、私たちの話を敬意を持って聞いてくれますし、熱心に仏事にとりくんでくれます。
教皇は、神さま仏様がいらない人はそもそもお寺や教会にはこない、宗教家がお寺や教会の中に留まっていてはいけない、ということを言われたのです。
2点目は、「神様仏様はいらないといっている人に、聖書の言葉を使うな」と言われました。
何千年も前の偉い人の言葉を引用するだけでは何のリアリティもない、聖書の引用ではなく、自分自身を語れ、自分自身を語るには、宗教体験、実践や体験が必要だといわれました。
これは、どの分野においても共通することです。
単に知識や情報を得ることによる理解ではなく、実際の体験、実践、自分自身が外に出ていく働きかけが重要です。
今回、違いをチカラにといわれているがよく誤解されているのは、話せばわかるということです。
私の経験上、話をしても分かり合えない場合もよくあります。
むしろ、話してわかるのであれば本当の多様性ではない。本当の多様性は、話しても議論しても分かり合えないものも含まれなければならないと思うです。
たとえば猫とネズミのような関係。天敵のような関係であっても、それがあってはじめての多様性です。
分かり合えなくてもまずはその存在を認めあうことが大切なのです。

トルコの田舎で、あるおばあさんとお話ししたとき「何を信じているの?」ときかれました。
イスラム教の神ではないことを話すと「アッラーを知らないとは、なんて哀れなの」と号泣されました。
そういう人に日本には八百万の神があるということを説明しても、受け入れられません。
ですが、そういう世界がある、存在は分かってもらえたと思っています。
まずは存在をわかってもらうことが重要です。

いろいろなところで宗教にかかわる悲しい出来事も起こっています。
ジョン・レノンが「ラブ アンド ピース」というメッセージを世界に発信しましたが、今の世の中は「ラブ オア ピース」になっています。
マザーテレサは、愛について次のように言いました。
「愛の対義語は、憎しみではない、愛の対義語は無関心である」。
無関心というのは、存在すらもわからない、認めないということです。
いま自分たちが全く理解できないことがあるかもしれないけど、でも、存在を認めていこう、話を聞こう、タブーなく話せる関係性を作ろうということが本当の違いを認める、多様性を認める世の中であることだと思います。

このシンポジウムのテーマ、「違いをチカラに」ですが、違うから自分自身を深めるチャンスになる、世の中に働きかけるひとつのモチベーションになると考えています。
みなさまも、このシンポジウムを、ご自身が、違いを力にする契機にしていただけたらと思います。
ありがとうございました。

―2017年6月15日(火)、大阪産業創造館イベントホールにて開催したPREXシンポジウム「違いをチカラに~国や価値観の違いを乗り越えて~」基調講演の内容をまとめたものです。―

  • 掲載日:2017年6月13日
  • 研修名:PREXシンポジウム2017 基調講演
  • 氏名:松山 大耕氏
  • 役職・職名:京都 妙心寺退蔵院副住職

関連記事